● ナヌマンガ島の日の出 バイツプ島の夕暮れ ナヌマンガ島 2

― ひとの、美しさは ―   



正月の祭りに出る他島の子どもたちのために、花冠を編むアセナティ。
アセナティの花の組み合わせのセンスのよさは、島でも評判。
(2011年1月6日)


  島の暮らしは、じつはとても忙しい。

 今回ナヌマンガ島の、アセナティおばの家にたどりついた時。
アセナティにわたしの希望を言った。
「この島の伝統工芸、ゴザの模様編みをしっかり学びたい。わたしとあんたとで大きな模様編みゴザを一枚、仕上げたい。」
アセナティはこの島のあらゆる伝統模様の編みこみ法をすっかり体得しているのだ。(★1)

アセナティはうなずいた。
「よっしゃ、わかった。」

 けれども、毎日、まいにち、アセナティは寝るまで忙しかった。
 わたしたちがナヌマンガ島に着いたその月は、ツバルキリスト国教会の大集会がこのナヌマンガ島で開催された。国内外の牧師・教会理事…賓客200名が、島民の各家に散らばって約三週間泊まる。このアセナティ宅でも、首都フナフチの教会役員二名が泊まった。ふたりは毎日、正装して島の教会での大会議に出かける。アセナティは日々、庭にタライを出して、このふたりのドレスやシャツ・ズボンの洗濯だ。バケツの水を何度も庭に運ぶ。けれどもいつも、庭を横切る島民たちと冗談を言いあっては、笑いながらやっていた。そうしてあれこれ世話をやいて、やっぱりこの首都からのふたりとも色々おしゃべりして、笑いあっていた。

  賓客200名が島を去った後にも、まだこの家には、他島の寄宿舎に入っているアセナティの三番目の子どもの友だち数人がステイしていた。日々、10人以上がこの家でごはんを食べる。わたしとアセナティは毎日、ココナツを削り、ブレッドフルーツを素焼きして、魚をさばき、どの子どももおなかいっぱいになるように励んだ。
 アセナティは笑ってわたしに言った。
「うちは今、大所帯だからね。」

  子どもたちがそれぞれの島に帰る頃になると、アセナティの五番目の娘バイエリが新たに、他島のセカンダリー・スクール(日本の中学二年から高校二年にあたる)の寄宿舎に入ることになった。(★2)
   
母親は、シーツを縫って、寄宿舎のベッドに敷くござを編む。(注:これは模様編みではないシンプルなござ=「パパ」。) これからの4年間の寄宿舎暮らしに必要なものを、ひとつひとつ用意しては、大きなトランクに詰めていく毎日だった。

 そしてバイエリは船に乗って出発した。
 アセナティは言った。「ああ、やっとナツと一緒に、模様編みゴザが編めるかね。」
 ところが、そのとき。首都フナフチにいるアセナティの二番目の娘が、突然の本人たちの希望で結婚することになった。結婚の前後は母親があれこれの世話をするのが慣わしだ。アセナティは、わたしに何度も謝りながら、船で首都に旅立っていった。

  たまたま色々重なったというよりは―。これが島の日常なのだ。祭りは一、二週間に一回はある。そのたびに服やら花冠やら準備をして、鶏を殺して、ごちそうを作る。島に何かあって賓客が来れば、丁重にもてなすのも当然の慣習。そして誰もが子だくさん。毎日大勢の子どもの世話。なんだかんだと、いろんなことがある。



★1 ナヌマンガ島の模様編みござ=ナヌマンガ島2008年の日記―ござ編み―
ここでわたしがアセナティに一緒に編んでくれと頼んだのは、大判の装飾ゴザ「メアモエ」のこと。

★2 他島のセカンダリー・スクール=バイツプ島にある唯一のツバル国立・モトゥフォウア・セカンダリー・スクールのこと。
バイツプ島の社会構造3―政治あるとこ政治劇あり― 参照。




太い椰子の葉芯から葉をきれいにそぎ落とし、ホウキを作るアセナティ
(2010年12月18日)





  一ヶ月後、アセナティが首都から島に帰ってきたときには。わたし達日本から来た母子は、もうすぐこの島を後にせねばならなくなっていた。
  ところが、またもや仕事ができた。ござ編みの島としてツバルでも知られるナヌマンガ島に「おふれ」が出たのだ。他島の国立セカンダリー・スクール(↑★2)で使うござを、おんなひとりにつき一枚ずつ編んで寄進せよ、と。こうした共同体としての義務仕事もよくあることだ。


わが家の新しい小屋のために、
屋根材になる葉をしごくアセナティ
(2011年1月31日)
→ 屋根材:ナヌマンガ島2008年の日記―マロソーばあちゃん―



毎日たくさんの子どもたちに食べさせる。
(2010年11月25日)



  おんな達は森の仕事や料理をしながら、毎日少しずつ、この寄進用のござを編んだ。

「あんた、ござ、どんだけ進んだ?」
「まだ森で葉っぱを集めてきたところだよ。あんたは?」
「あたしゃ、もう葉っぱのトゲとりをしてるよ。来週からトゥキトゥキ(葉を杵でついてなめす作業)だよ。」
 そんな会話が日々、島のおんな達のあいだで交わされた。

  ―アセナティは。
  働き者で段取りのいいアセナティは、普段から暇ができるとすぐ森に行ってキエ(ござを編むためのパンダナス葉)の葉を集め、家に持ち帰ってトゲとりをしていた。だからすぐに、それらを杵でついて、なめす作業、「トゥキトゥキ」にとりかかった。

  わたしがアセナティの分担のござを手伝おうと、杵で葉をついていると、アセナティは言った。
「ナツ。やめときな。
あんたはわたしの仕事用の葉でなくって、自分の模様編みござのための葉をついておきな。もう、時間がないんだから。」
(同じキエの葉でも、このとき寄進を義務づけられたシンプルなござと、模様編みござでは、葉の太さなど選別が違う。★3

 そうしてこうも言った。
「あんたが今回、島に来てから五ヶ月っていうのに、ちっとも一緒に模様編みござを編む暇ができやしなかった。本当に悪いことをしたよ。待ってな。わたしの分担のござなんか、二、三日で仕上げるから。そしたら、あんたが乗る船が来るまえに、今度こそわたしら、あんたの模様編みござに取りかかろう。」

★3 寄進するシンプルなござは「パパ」、わたしが学びたい模様編みのござは「メアモエ」。
ナヌマンガ島2008年の日記―ござ編み― 参照



ござを編むアセナティ
(2011年4月25日)


  アセナティの夫であるウィニは機械工だ。
長年、島役場に修理工として勤めて貯めたお金で、外国から太陽光発電パネルを二枚買った。中古の蓄電機も買ってきて設置して、この家では、夜に使う小さな電灯が、島の発電所(★4)に頼らなくても自家発電できるようになっていた。

  その電線を、アセナティに言われてウィニが外にひっぱり出している。
「何すんの?」とわたしは聞いた。
「あんたたちが母屋で寝たら、外の小屋でござ編みすんのさ。」

  島の日々は肉体労働だ。毎晩全身どっぷりと疲れきって、夜十時ごろにはわたしも泥のように深く眠ってしまう。
 ある夜、子どもたちはもうとっくに寝静まったなか、わたしも寝ゴザの上で、闇の中で意識が眠りの世界へ行こうとするとき。外の小屋から小さな裸電球の明かりがさしてきた。そして、「シャッ!シャッ!」とキエの葉をさばきながらござを編む音。
  でもわたしの疲れきった身体は床より深く沈んだように、ビクとも動かない。真っ暗な世界に、そのキエの葉の勢いのいい音だけが妙に輝いて響いて、夢の中にゆっくりとわたしを誘っていった。

  夜中にトイレに起きたときには、アセナティも母屋に戻って子ども達にまぎれて寝ているのを確認した。
  けれども朝五時。まだ夜明け前でみんな寝入っている向こうで、また外の裸電球がついていた。
「シャッ!シャッ!」「シャッ!シャッ!」

 島のおんな達が二、三週間かけて編むござを、アセナティはほんとうに三日で編んでしまった。


 外の小屋で、小さな裸電球の下でござを編むアセナティの、しっかりと見開いて、澄んだ瞳。
思い出すと胸が震える。

 島にいると、いやおうなく日々、見せられること。
どうして人間ってこんなに美しいんだろう―。

 人のために力を出す。そして、出し惜しみしない。それで当たり前って顔して、笑って、あまりにも自然に、人のために時間と、エネルギーを使う。

 島に生きる人たちは、本も読まない、何も持たない人たちだ。ただ森と海で食べ物をとって、子どもを育て、島の共同の仕事に忙しい。

でもこんなに生き生きと笑う。 美しい。

  ツバル離島に通い始めてからこの六年間、島にいると、ことあるごとに心打たれてしまうのだ。
「ああ、ひとってほんとうは、こんなに美しかったんだ…」

 日本の街中でのそれまでの人生、わたしは人間が汚く見える悲しい体験を重ねては、打ちひしがれることもたびたびだった。そんな人間のひとりとして、生きる希望を失うこともあった。
  けれども今。わたしはもう知っている。ひとは、こんなに美しいものだ。街に住むとその美しさを失ってしまうのには、いろいろな原因がある。
  自然のまんまの人間は、こんなに力強くて、こんなに美しいものなのだ。



 あくる朝。
 完成した、他島へ寄進するためのござから出ている余り葉を、ナイフでプチプチと始末しながら、アセナティはわたしを見てニカッと笑って、言った。
「ナツ、待たせたね。今日から、あたし達ふたり、あんたの模様編みござに取りかかるよ。」






執筆 2012年5月11日 

ござ編みの休憩。びんを枕に、ねっころがって10秒でいびきをかいていた。
(2011年4月25日)



★4 島の発電所=島には小さな発電所があり、村のための発電をしています。―ナニセニの死―参照。




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