5月に島役場(カウプレ)を訪ねたとき。コンピューターでやっているのは仕事ではなくトランプゲーム。一番奥で書き物をしてるのがナニセ二。 |
2005年4月から6月、シキガがカヌーを作っていた。
私はしょっちゅう夢さんを連れて、そのカヌー作りを観察・写真撮影とビデオ撮りに通っていた。 5月11日。シキガの家先で。夢さんが見当たらない。その辺の森にひとりで出かけたのかな、と思ってしばらくたつとー。 それがナニセ二を初めて見たときだ。 |
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大きなフレッドフルーツの木、フェタウの木、椰子の木…それらの木々の林を少し行くと、とても小さな小屋があった。ここで、ナヌマンガ島民が消費する全電気を発電しているという。 わたしが寝坊すると、夢さんが消えていることがよくあった。が、島ではさほど心配はいらない。 けれども夕方のナニセニは、そんな詳しい状況説明は何もしなかった。恥ずかしげに夢さんを下ろすと、「じゃ…」と寡黙にさっていった。 |
5月30日、頭痛のナニセ二を乗せて首都へ向かう定期船。 |
5月30日。3週間ぶりに、ナヌマンガ島に船が来た。首都からの、北部ルートの定期船。島と外界をつなぐ唯一の船。 いつものように港に様子を見にでた。今回の停泊時間は約半日。 |
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そこへ、村から大勢の人びとに支えられてヨタヨタと来る人影。 「はいはい、どいてどいて。」 支える人々はナニセ二をボートに乗せた。 周りの人びとに聞く。「ナニセ二、どうしたの?」 6月3日。 離島の診療所には医者はいない。看護士が常駐しているだけだ。 |
6月5日。たった6日しかたってないのに、本来1ヶ月に1、2回しか来ない船が北部3島をふたたび回ってきた。 離島に急病人がでたときと、遺体を離島に返すときは、予定スケジュール以外に船が巡航する。大型船が来るのだから、予定してなかった人々や荷物も、ここぞとばかりに便乗してまた首都と離島間を動く。 船が沖に停泊して、まず最初のボートで、大きな棺(ひつぎ)が運ばれてきた。数人の男たちによって、その棺(ひつぎ)はマゴーマヒ氏族の集会所に運ばれた。 |
港から運ばれたナニセ二の棺(ひつぎ)を飾り付けて、賛美歌と祈りの葬式(「ファーノアノア」)。妻のリテタがおいおいと泣いていた。 |
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葬式、「ファーノアノア」は午前11時に始まった。 |
朗々と賛美歌が響くなか、ココナツ葉で編まれたゴザ「パカウ」で小さな家型の墓が作られる。旅立つ魂は、島の人びとみんなに、こうして慈しまれる。わたしなら、死んだあと、こんなに大切にされたら幸せだなぁ。 |
これは死んで2年ほどたったひとの墓。ナヌマンガでは、パンダナス葉を薄く裂き、赤(ノニの根で)、黒(マングローブの根で)で染めて墓の飾りや祭り、冠婚葬祭なんでも使う。
それら赤と黒の葉リボンは「ガレガレ」といい、工程はかなり複雑で手間がかかる。 (その工程については別章で書く予定。) |
2時間ほどで葬式が済むと、棺はトラックにのせられて、島の森の北にある墓場に運ばれていく。 人びとも数台のトラックやバイクに別れて移動する。わたしは棺のトラックに、棺にくっついて村の青年団達とぎゅうぎゅうに乗り込んだ。 緑の森の中の墓場に着く。そこでは墓穴掘り役の十数人の青年達が、もうきれいに穴を掘って待っていた。ツバルは土葬なのだ。 人びとは車を降りて、再びろうろうと高い声で賛美歌を歌う。わたしはソロモン諸島でもサモアでも、人びとの暮らしに浸透した厚いキリスト教信仰とともに暮らした。今日はもう、南国の緑の椰子の森は賛美歌とひとつに共鳴してるかのように映る。 何本かの縄を棺にわたし、人の背の高さほどに掘られた墓穴に、ゆっくりと降ろしていく。 手際よく土がかぶせられ、サンゴの石で棺のありかの長方形をかたどる。そして、海岸から採ってきた真っ白い砂利をざらざらと敷き詰めていく。たくさんの花々でその上を飾る。さらに杭をうち、椰子の葉で編んだゴザ「パカウ」を屋根にしてまたがせ、故人のために小さい美しい家をつくる。屋根のてっぺんは保存用に干した椰子の実「タカタカ」で飾る。こうした葉と実のココナツ材の優しい小さな家をつくるのは、ナヌマンガ島の伝統だと、後で教えられた。 貴重な、ツバル北部ナヌマンガ島、人口500人の島の埋葬慣習。 つい4日前、眉間に皺をよせながら、血が赤く染みた腕の包帯を押さえながら、ボートに揺られて船に乗り込んだあの姿。 人の死というものはこのようにやってくるのだ。あの時もこの時も、わたしは、そしてナニセ二本人もおそらく、このあとすぐ死ぬなんて可能性は、全く考えていなかった。 |
ナニセ二の葬式から1週間後の日曜日にも「ファーノアノア」を催す。1週間前に香典を出した私は、さして親しくもないのに賓客として招待されて柱の前に座らされた。 (※ 柱の意味→ 「社会学科バイツプ島1 どこにでもあるヒエラルキー」) |
1週間後の日曜日の「ファーノアノア」での集会所の周り。親戚一同が準備する。 |
バイツプ島では53歳の人が、「おなかがどんどん膨らんでいって」死んだ。 医師がいない、検査をするための医療機械も薬品も少ない。病名が判明しないまま死ぬのが、ここの日常なのだ。 わたしは飽きないかぎり、この先もツバルに長期滞在を繰り返したい。老後はナヌマンガ島で、島独特の編みこみござの研究なんかして過ごせたらと夢に見ている。 |
「ファーノアノア」は「悲しむ、悲しい」という意味。
転じて、「葬式」。けれども遺体がない首都や外国にいる親族間でも催す。
遺体がない場所でも、おおぜいの人が集まるのだ。
さらに、初めの葬式のあとの、日本でいえば初七日やその後の仏事にあたる
何回かの礼拝と会食も「ファーノアノア」。
だから日本語の「葬式」とは、少し定義がずれてます。
これはバイツプ島にて。
家族・近い親族が遺体を囲んで泣く。 ぐるりと遠巻きに教会の青年団や聖歌隊がそれぞれの制服を着て座り、賛美歌を歌い続ける。 来客は瓶の香水を持ち、この家族達にシューシューとかけて回り、家族代表である配偶者や親などに香典の現金や服の生地を渡し、そして遠巻きに座す。 |
綱を渡して棺(ひつぎ)をゆっくり降ろしていく。埋葬のときも聖歌隊がろうろうと歌う。
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ツバル人は親族社会。島である人が死ぬと、首都フナフチにいるその人の親族、また留学などでフィジーにいるその人の親族、移住でニュージーランドに住むその人の親族、など各地の親族がそれぞれに、その地で「ファーノアノア」をする。 これはわたし達がツバルからフィジー経由で日本へ帰る途中、ホームステイ家族であったパエラテじいちゃんが首都フナフチで死んだという知らせを受けたので、フィジーのツバル人コミュニティの親族が集まって「ファーノアノア」をしたのだ。フィジーなのでえらくきれいな家。それに紙コップを使い、デザートにアイスクリームがでているところ。 |
首都フナフチで、生前のパエラテじいちゃん。享年66歳。ふるさとヌクフェタウ島からフナフチの病院通いのため来ていたが、首都の家の中では、なんだか寂しそうだった。
一度島に帰って、再度首都へ来るとき、船内の部屋のエアコンが効きすぎて寝たきりの身体が冷えきっていた。デッキに連れ出されたパエラテじいちゃんを触って冷たさにびっくりした。(わたしと夢さんは終始デッキ暮らし。)デッキでわたしは必死でじいちゃんをマッサージした。わたし達はその後すぐツバルをたち、そしてフィジーにいるとき、死んだという知らせが来た。 |
ナヌマンガ島にて。首都フナフチで両親と住んでいた島出身の13歳の女の子が病死した。遺体はフナフチ。やはりこれも、遺体のないふるさとの島での、祈りとごちそうだけの「ファーノアノア」。 |
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執筆 2007年8月7日
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