● ナヌマンガ島 

 

ー ナニセ二の死 −


6月5日、船で首都フナフチから帰ってきたナニセ二の棺(ひつぎ)を、港から集会所へ運ぶ。



5月に島役場(カウプレ)を訪ねたとき。コンピューターでやっているのは仕事ではなくトランプゲーム。一番奥で書き物をしてるのがナニセ二。

  2005年4月から6月、シキガがカヌーを作っていた。
 私はしょっちゅう夢さんを連れて、そのカヌー作りを観察・写真撮影とビデオ撮りに通っていた。

 5月11日。シキガの家先で。夢さんが見当たらない。その辺の森にひとりで出かけたのかな、と思ってしばらくたつとー。
 森への入り口に、夢さんが男性と2人でぽつんと立っていた。男性はがっちりした体格、固太りで、白髪と黒髪がまぜこぜにクシャクシャしてる。

 それがナニセ二を初めて見たときだ。
ナニセ二は言った。
「…発電所の様子を外から伺っているところを見つけて…。危ないから、ひとりで入ってはだめだよと言って、連れてきた。」
「近くに発電所があるの?」
「ああ。…見にきてみる?」
 ツバルの男性らしからず、遠慮ぎみに、さほど大きくない声で訥々(とつとつ)としゃべる。

  大きなフレッドフルーツの木、フェタウの木、椰子の木…それらの木々の林を少し行くと、とても小さな小屋があった。ここで、ナヌマンガ島民が消費する全電気を発電しているという。
 ナニセ二はその小屋ー発電所の所長だった。
機械の轟音(ごうおん)が耳によくないから…とヘッドフォン型のプロテクターを貸してくれて、背の高さより低い3機の発電機を見せてくれた。
「60KVAのがふたつ、100KVAのがひとつ。全部で320KVAの電気がこの島のためにここで作れるんだー。」
 機械や工学の世界にほとんど食指が動かないわたしは、ふーん、と適当にメモだけして、ありがとうを言ってその場を去った。カヌーづくりのビデオ撮りやらで、疲れてもいた。
 けれどもなんだか朴訥(ぼくとつ)で誠実そうなナニセ二は、心の片隅に印象に残った。ま、シキガがカヌーを作っているその家のすぐ近くなので、これからいくらでも会うだろう、と思った。

 次の朝、起きてみると夢さんがいなかった。

 わたしが寝坊すると、夢さんが消えていることがよくあった。が、島ではさほど心配はいらない。
どこかの誰かのところへ行って、その誰かが面倒見てくれているからだ。夢さんは必ず、人のいるところへ行くのだ。
 その日はそれが発電所のナニセ二だった。
昼前、だれかがそう伝言してくれた。

 夕方、夢さんはナニセ二のバイクに乗せられて帰ってきた。
「ありゃ、夕方までずっと一緒だったの?」
 察するに、きっとナニセ二はその小さな小屋には入るなよと言い聞かせながら、仕事をしつつ発電所の周囲の森で遊ぶ夢さんをずっと見てくれていたのだろう。 昼も自分の家に連れていって家族と一緒に昼ごはんをしたのだろう。それが島のみんながどの子供にたいしても普通にすることだ。

 けれども夕方のナニセニは、そんな詳しい状況説明は何もしなかった。恥ずかしげに夢さんを下ろすと、「じゃ…」と寡黙にさっていった。
 家の人たちと外で火をたいて夕飯の支度をしていたわたしも、雑多な作業にとりまぎれてナニセ二をひきとめることもしなかった。とりあえず礼を言って、あとをどう続けようかと考えているうちに、バイクをふかして去っていった。
 その晩、夢さんはとてもごきげんだった。自分がいられる家や空間を新しく見つけるといつもそうだった。
 世話になりながら、まだしっくりとした会話もしていないことが気になっていた。「次に会ったときにはー」と思った。



5月30日、頭痛のナニセ二を乗せて首都へ向かう定期船。

 5月30日。3週間ぶりに、ナヌマンガ島に船が来た。首都からの、北部ルートの定期船。島と外界をつなぐ唯一の船。

 いつものように港に様子を見にでた。今回の停泊時間は約半日。
   船は大型で島の浅瀬に近づけないので沖合いに停泊して、ボートで旅客と荷物を何往復もして運ぶ。
 島のたった1件の生協店へのカーゴが運ばれたり、首都へのココナツや豚が積み込まれたり、人びとが別れを言い合う。 荷を降ろして開いたボートに、首都へ出る人々が乗り込む。
 そんな風景のひとつひとつー。色々な積み荷、威勢よく荷物を運ぶ島のみんな。 それがわたしはとても好きで、その日はビデオも回してした。

 そこへ、村から大勢の人びとに支えられてヨタヨタと来る人影。
 ナニセ二だ。わたしは思わず、ビデオを止めた。撮るより、何かを話しかけたかったのだ。腕の包帯から赤い血が出ている。後で聞くとそれは点滴の後だったらしい。わたしの知っている穏やかなナニセ二の顔が、眉間に険しい皺をたたえて、異変をあらわしていた。

 「はいはい、どいてどいて。」 支える人々はナニセ二をボートに乗せた。
 あまりにせわしくそのシーンは動いていき、わたしはたじろいだ。動揺しているうちに話しかけるチャンスも逸したまま、ボートは船に向かって揺れていった。

 周りの人びとに聞く。「ナニセ二、どうしたの?」
「頭がひどく痛くて物が食べられないって、診療所に入院してたんだけどね。どんどんひどくなるんで、フナフチ(首都)の病院に行くんだって。」

 数十分後、すべての積み込みと人びとの乗り込みを終えた船が、2隻のボートを引き上げて、沖にゆっくりと姿を消していった。

 6月3日。
 風邪の夢さんを診療所に連れてきていた。

 離島の診療所には医者はいない。看護士が常駐しているだけだ。
 その日、看護士テルベとおしゃべりをしていた。ツバルでの健康保障や新生児死亡率の話を聞いていた。
 その時、電話が鳴った。受話器に向かって話すテルベの声が急に鋭く深刻になった。
「エエッ!タァアアア〜!ファカアロファ〜!(かわいそうに〜!)カイアー?(どうして?)」
 電話を切ったテルベはわたしに向き直っていった。
「ナニセ二、フナフチの病院で、死んだって。」

 テルベは隣りの別棟に急いだ。そこには出産を無事終えたばかりの、ナニセ二の妻リテタと生まれたばかりの赤ん坊が寝ていたのだ。
 すぐに別棟から大きな叫び声が聞こえた。
「うああああああああああー!」
リテタが泣き叫んだのだ。

 ナニセ二は40歳だった。
 テルベは言った。「肺炎だって。3日前に船に乗り込んだときは、そんな兆しは全くなかったのに。」


 6月5日。たった6日しかたってないのに、本来1ヶ月に1、2回しか来ない船が北部3島をふたたび回ってきた。
 臨時周航の目的はナニセ二の遺体をナヌマンガ島に届けることだ。

 離島に急病人がでたときと、遺体を離島に返すときは、予定スケジュール以外に船が巡航する。大型船が来るのだから、予定してなかった人々や荷物も、ここぞとばかりに便乗してまた首都と離島間を動く。

 船が沖に停泊して、まず最初のボートで、大きな棺(ひつぎ)が運ばれてきた。数人の男たちによって、その棺(ひつぎ)はマゴーマヒ氏族の集会所に運ばれた。
 ナヌマンガ島民は5つの氏族に分かれている。ナニセ二はマゴーマヒ氏族だった。


港から運ばれたナニセ二の棺(ひつぎ)を飾り付けて、賛美歌と祈りの葬式(「ファーノアノア」)。妻のリテタがおいおいと泣いていた。

 葬式、「ファーノアノア」は午前11時に始まった。
 妻のリテタを始めごく近い親族が棺をかこんで、思い思いに泣いている。いつも見慣れた村の人びとが、教会の聖歌隊の制服を来て、各隊かたまって座って、美しい声であらゆるツバル語賛美歌を合唱する。
 ツバルの人びとの賛美歌はほんとうに美しい。各パートに分かれたハーモニーがたからかに響く。 
 そして、たくさんの賛美歌の合間あいまに、人びとの弔問スピーチがあって、牧師の祈りがある。




★ 動画「ナニセ二の墓作り」 ★
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動画が再生されます。

(20秒)

朗々と賛美歌が響くなか、ココナツ葉で編まれたゴザ「パカウ」で小さな家型の墓が作られる。旅立つ魂は、島の人びとみんなに、こうして慈しまれる。わたしなら、死んだあと、こんなに大切にされたら幸せだなぁ。

これは死んで2年ほどたったひとの墓。ナヌマンガでは、パンダナス葉を薄く裂き、赤(ノニの根で)、黒(マングローブの根で)で染めて墓の飾りや祭り、冠婚葬祭なんでも使う。
それら赤と黒の葉リボンは「ガレガレ」といい、工程はかなり複雑で手間がかかる。
(その工程については別章で書く予定。)


 2時間ほどで葬式が済むと、棺はトラックにのせられて、島の森の北にある墓場に運ばれていく。

 人びとも数台のトラックやバイクに別れて移動する。わたしは棺のトラックに、棺にくっついて村の青年団達とぎゅうぎゅうに乗り込んだ。
 でこぼこ道をゴドンドカンと、椰子の葉をバサバサと頭に受けながら、森の中の墓場に向かう。青年団の若い男たちは、棺とひしめきながらも冗談を叫んでは笑っている。

 緑の森の中の墓場に着く。そこでは墓穴掘り役の十数人の青年達が、もうきれいに穴を掘って待っていた。ツバルは土葬なのだ。

 人びとは車を降りて、再びろうろうと高い声で賛美歌を歌う。わたしはソロモン諸島でもサモアでも、人びとの暮らしに浸透した厚いキリスト教信仰とともに暮らした。今日はもう、南国の緑の椰子の森は賛美歌とひとつに共鳴してるかのように映る。

 何本かの縄を棺にわたし、人の背の高さほどに掘られた墓穴に、ゆっくりと降ろしていく。

 手際よく土がかぶせられ、サンゴの石で棺のありかの長方形をかたどる。そして、海岸から採ってきた真っ白い砂利をざらざらと敷き詰めていく。たくさんの花々でその上を飾る。さらに杭をうち、椰子の葉で編んだゴザ「パカウ」を屋根にしてまたがせ、故人のために小さい美しい家をつくる。屋根のてっぺんは保存用に干した椰子の実「タカタカ」で飾る。こうした葉と実のココナツ材の優しい小さな家をつくるのは、ナヌマンガ島の伝統だと、後で教えられた。
 
 わたしはビデオを回しながら、空に高く響く賛美歌のハーモニーに体を包まれて不思議な感覚だった。まるでビデオカメラの向こうのこの情景のほうがBGMで、賛美歌がたたえる神の国のほうがリアルなこの現場であるようだった。

 貴重な、ツバル北部ナヌマンガ島、人口500人の島の埋葬慣習。
 それをビデオで撮っている自分が、とても浅はかな、薄っぺらい存在に感じた。ナニセ二が死んだのにー。その埋葬の様子をナヌマンガ島の文化的資料として撮影しているのだ。

 つい4日前、眉間に皺をよせながら、血が赤く染みた腕の包帯を押さえながら、ボートに揺られて船に乗り込んだあの姿。
 つい20日前、夢さんとそこの森かげに立っていた姿。そして夢さんをバイクの前座席にしっかりと抱え込んで家に現れた日暮れ時のあの姿。
 わたしは、あの時もこの時も、「シャイな人なのだな。」と思いながらなんとなく会話を終わった。そのうちに…、と思っていた。

 人の死というものはこのようにやってくるのだ。あの時もこの時も、わたしは、そしてナニセ二本人もおそらく、このあとすぐ死ぬなんて可能性は、全く考えていなかった。



ナニセ二の葬式から1週間後の日曜日にも「ファーノアノア」を催す。1週間前に香典を出した私は、さして親しくもないのに賓客として招待されて柱の前に座らされた。
(※ 柱の意味→ 「社会学科バイツプ島1 どこにでもあるヒエラルキー」

1週間後の日曜日の「ファーノアノア」での集会所の周り。親戚一同が準備する。


 バイツプ島では53歳の人が、「おなかがどんどん膨らんでいって」死んだ。
 ツバルでは「え?なんで死んだの?」と聞いても、病名が返ってくることは少ない。「頭が痛いと言いながら」死んだよ。「熱が出て物を食べなくなって、泣きながら」死んだよ。

 医師がいない、検査をするための医療機械も薬品も少ない。病名が判明しないまま死ぬのが、ここの日常なのだ。
 今で1年4ヶ月のツバル滞在中、滞在していた島で人びとの突然の病死に、7、8回、遭遇した。

 わたしは飽きないかぎり、この先もツバルに長期滞在を繰り返したい。老後はナヌマンガ島で、島独特の編みこみござの研究なんかして過ごせたらと夢に見ている。
 だが、そうしているうちに、わたしも、それが日本でならすぐに入院して、病名を診断され、治療を受けて直る病気にツバルでかかり、「なんだか分からないうちに」死ぬかもしれないな、と思った。
だからツバル暮らしはやめて日本にいよう、などとは、全く思わないのだけれど。



 ● ツバルの葬式「ファーノアノア」 ●

「ファーノアノア」は「悲しむ、悲しい」という意味。
転じて、「葬式」。けれども遺体がない首都や外国にいる親族間でも催す。
遺体がない場所でも、おおぜいの人が集まるのだ。
さらに、初めの葬式のあとの、日本でいえば初七日やその後の仏事にあたる
何回かの礼拝と会食も「ファーノアノア」。

だから日本語の「葬式」とは、少し定義がずれてます。

これはバイツプ島にて。
家族・近い親族が遺体を囲んで泣く。
ぐるりと遠巻きに教会の青年団や聖歌隊がそれぞれの制服を着て座り、賛美歌を歌い続ける。
来客は瓶の香水を持ち、この家族達にシューシューとかけて回り、家族代表である配偶者や親などに香典の現金や服の生地を渡し、そして遠巻きに座す。
綱を渡して棺(ひつぎ)をゆっくり降ろしていく。埋葬のときも聖歌隊がろうろうと歌う。

 



ツバル人は親族社会。島である人が死ぬと、首都フナフチにいるその人の親族、また留学などでフィジーにいるその人の親族、移住でニュージーランドに住むその人の親族、など各地の親族がそれぞれに、その地で「ファーノアノア」をする。
これはわたし達がツバルからフィジー経由で日本へ帰る途中、ホームステイ家族であったパエラテじいちゃんが首都フナフチで死んだという知らせを受けたので、フィジーのツバル人コミュニティの親族が集まって「ファーノアノア」をしたのだ。フィジーなのでえらくきれいな家。それに紙コップを使い、デザートにアイスクリームがでているところ。
首都フナフチで、生前のパエラテじいちゃん。享年66歳。ふるさとヌクフェタウ島からフナフチの病院通いのため来ていたが、首都の家の中では、なんだか寂しそうだった。
一度島に帰って、再度首都へ来るとき、船内の部屋のエアコンが効きすぎて寝たきりの身体が冷えきっていた。デッキに連れ出されたパエラテじいちゃんを触って冷たさにびっくりした。(わたしと夢さんは終始デッキ暮らし。)デッキでわたしは必死でじいちゃんをマッサージした。わたし達はその後すぐツバルをたち、そしてフィジーにいるとき、死んだという知らせが来た。



ナヌマンガ島にて。首都フナフチで両親と住んでいた島出身の13歳の女の子が病死した。遺体はフナフチ。やはりこれも、遺体のないふるさとの島での、祈りとごちそうだけの「ファーノアノア」。

 

執筆 2007年8月7日



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