● 水 4  

 

ーとある夜、ガンガン・ボタボタ
あぁツバルー


水不足のときにも、ツバル人はあいかわらず、毎日がははと笑い、料理をしながら踊っていた
バイツプ島で、わたしと夢さんの親戚であったライナばあちゃんとカラレイばあちゃん。プラカ芋を石焼しながら、まぁ〜ふざけて踊るわ踊るわ。2006年5月の水不足期にー。

バイツプ島で家族であったタリア・リセ宅のトイレ&水浴び部屋。この大きなタライには、水をためて使っていたのですぐボウフラがわいた。でも、タリアもリセも、はははと笑って気にせず使っていた。

こちらは、ナヌマンガ島で家族であったテアギナ宅のトイレ&水浴び部屋。ナヌマンガ島ではほとんどの家が、こんなふうに野外にあった。

これはまた別のツバル離島、ヌクフェタウ島でのトイレ&水浴び部屋。
手桶によく使われるのは、このうす緑色の、「アイリッシュケーキ」という輸入タバコ葉の空き缶。

カウプレ(島役場)で水購入のお金を払うと、さっそうと登場!カウプレ給水車。(バイツプ島)

タリアの作った雨水地下タンク「自家製ヴァイ・サメニ」に、ごうごうと水を入れていく。


子供達は、雨になるとおおはしゃぎで、水遊びをする。
手前は夢さん、5歳。



暗闇で大粒の雨しずくを浴びる、水不足終焉の夜であった。

 2006年5月、ナツと夢さんはツバルの離島、バイツプ島にいた。

4月から雨が降らない日が続いていた。

 まず、5月7日、首都フナフチから定期船で帰ってきた、バイツプ島生協ストアの店長、レッサーと久しぶりに会ったときー。「どうだった、フナフチは?」「いやぁ、あそこは水が無くなってきてるよ。なにせ人が多すぎるもんなぁ。私は政府所有の雨水地下タンクの水を買ってたよ。」

 それから数日すると、夕方4〜6時の「夕刻の水浴び」の時間に、バケツを持って、バイツプ島中央広場の雨水地下タンクに向かう人々の姿を見かけるようになった。
 「よう。あれ?バケツ持って。あ、ヴァイ・サメニ(島共有の雨水地下タンク)で水浴び?」
「そぉ〜だよ。ヴァイ・タネ(家の丸い雨水タンク)の水は、もぉなくなっちゃったからねぇ〜。」


 わたしたちが世話になっていた、タリアとリセの家でも、他の家同様、NGO「Save the Children」の手による丸い雨水タンク、ヴァイ・タネ(写真→水2「ツバルの水の歴史)がある。
 しかもその上、建築ができるタリアが自力で作った、四角い地下タンクもあった。自家製ヴァイ・サメニとでも言おうか。
(タリアとリセの家→バイツプ島実況写真集その2「さて、家族のご紹介」
 だから、水の備蓄量は、近所の家の倍はある。

 わたしと夢さんはこうして幸い、毎日広場まで水浴びをしに行くこともなかった。

 ところが、われらがヴァイ・タネと自家製ヴァイ・サメニの水も少なくなってきた。
 ある日、腰より高い位置につなげてある台所の蛇口から水が出なくなった。
 その日からは毎日、直接外のヴァイ・サメニまでバケツで水を汲みに出て、それをわっせわっせと台所に持ってきて料理をする。
 水を入れたバケツはかなり重くて、毎日ひと苦労だった。

 さて。島共有の雨水地下タンクの水は、まとまった量なら、カウプレ(島役場)にお金を払えば買うことができる。 (カウプレ→社会学科バイツプ島2「島の自治は強し+島役場『カウプレ』」

 「島の地下タンクの水が不足になってくる前に買っとかなくちゃね。」と、5月11日、リセがカウプレに行ってお金を払ってきた。
 2500リットル買えた。12.5オーストラリアドルだった。(注:ツバルは独立国家ですが、オーストラリアドル使用です。)

 翌日、カウプレの給水車がさっそうと来た!
ああ、ありがたや、給水車には後光がさしていた。
 その神様は、ゴォゴォと水を自家製ヴァイ・サメニにおめぐみくださり、さわやかに去っていった。

「やれやれ、これでしばらく安心だよ。もうケチケチしなくていいからね。」
 リセはニコニコと、また台所の蛇口から水を流して使うようになった。 −雨が降ったわけでもないのに。

 水不足には変わらないのに、ちょっとたっぷりとした水を見るとすぐ、長期的視野を忘れてしまう。
 バイツプ人は、気前はいいけど、そういうところがある。「ケチらない」ことがバイツプではいちばんの美徳なのだ。

 ところが、その後も雨は、何日も降らなかった。

 一般にツバルでの各家の「水浴び部屋」(ポトゥ・コウコウ potu koukou) では、水のたらいを置いて、そこから手桶で体に水をかけるようにしている。
 そこに置く手桶は、たいていどこの家でも、使い古した大きな空き缶だ。

 その空き缶を、大きめの輸入タバコ葉の缶から、小さいココアの缶に変える提案をした。「ちょっとでも水の節約になるんじゃないかな。」
 タリアはすぐさま賛成した。「そりゃ、いい考えだ。ナツ、ポト!(賢い!←子供をほめる時によく言う…)」
 でもその横で、リセは、なんだか憮然とした顔。「そこまでせんでも…」と、その目が言っていた。リセは生粋のバイツプ人魂を誇りにしている、根っから何でも使いっぷりのいい女性なのだ。

 ところがやはり。また水面の位置は蛇口の高さより下回ってきた。

 ツバル唯一のラジオ放送であるツバル国営ラジオでは、毎日、節水をよびかける寸劇コマーシャルが放送されるようになった。

 フィジーの日本大使館が、心配して何度か電話をくださった。その後大使館では、海水淡水化装置追加寄付の段取りを、ものすごいスピードで進めた。(海水淡水化装置→前ページ
 邦人の無事を見守るというこの素晴らしいお仕事の方々に深く感謝しながらも、なぜかわたしは、さほどハラハラもしていなかった。
 いつも通り毎日下世話な冗談を言って、いつも通りガハハと大笑いしていた、このツバル人たちに囲まれていたせいだろうか…。

 さて。しばらくした5月25日。
今度はわたしが追加の水を買いにいった。

  窓口にいたカウプレ会計のアリエラおばちゃん。「あぁ、水を買いたいのねぇ…。ええと。もう島の地下タンクの水も少なくなってきたから、販売制限ができてね。1回1000リットルまでなの。で、7.5ドルに値上がりしたの。悪いわねぇ…。」
 アリエラはすまなそうな顔をしてみせた。

 ともあれ。
そうして2回目の給水車が我が家に来たその当日―。

 いきなりの、大雨になった。ザザザザザザザザザーーーーー!!! 
 久しぶりに聴くこの、鼓膜をつんざく雨の音。そして、あぁ懐かしい、雨と土の溶けた、この強い湿気た匂い。
命の匂いだー。体の細胞が、ふつふつと喜ぶのが分かった。

 「マヌイア!!マヌイア〜!(やったぁ!!めでたい〜!)」と近所中で湧いた。

 ところが…。
 夜中になると、その度を越した大雨…。
家族で寝ていた高床式の小屋「ウム」。
ザアザアと大きな音を耳にしながら寝ていたほおにー、突然、ボタン!と冷たい大粒のしずく。
雨漏りだ。

 ボタボタボタボタッ!次々に蚊帳を通り越して、寝ている私達の体に冷たい大粒のしずくが落ちてきた。ウムのトタンの屋根には、小さな穴ぼこがたくさん開いていたのだ。

「あいやうぇい!(←ツバルの感嘆符) 漏ってるよ!!」

 私たちは寝るに寝られず起き上がった。
 しかし、母屋に移動しようにも、この大雨の中だ。
一歩でも外に出たら、人間もマットもずぶ濡れだ。

 眠りの時間を返上。覚悟を決めて、タリアと私で、その穴ぼこをガンガンと金槌でたたいて、ふさいで回った。リセは懐中電灯で、ふさぐべき次の穴を見つける役目だ。「ほれ、ここ!」「ほれほれそこにも!」
 真っ暗な中、懐中電灯の細い光線のみ。蚊帳の中で寝ている夢さんに水がかからないよう、分厚いタオルケットをかぶせてー。
ボタボタッ!ボタボタッ!と額にかかる冷たい大粒の水を浴びながら、ガンガンガンガンガン!と金槌を鳴らす。

 真暗闇で、そのぼったりと冷たい水の大粒を浴びながら。金槌に揺れる小屋の振動を、全身でぶんぶんと感じながら。

―ああ、これがツバルの暮らしだー。

 ひしひしと、そう感じていた。

 大雨はそれから4日間続いた。
 タリアの持病の痛風が、湿気でひどく痛みだした。

 わたしたちは寝床をコンクリート作りの母屋に引っ越した。
タオルケットもマットも、着る服も湿気た、だっぽりと重たい冷たい空気の日々だった。
その冷えた空気の中、セーターを着込み、母屋でも、あちこちに細い雨漏りの音を聴きながら。
 痛風を痛がるタリアの足をマッサージする日々だった。


 日本。

 ー細く美しい疎水や用水。
緑の山からとうとうと流れる蒼い川の耐えることがない日本。
優しい日の光に、きらきらと細やかに輝く、その流れる水の揺れ。

 ツバル。

 −ギラリン、ギラリン、ギンギラギラと、あまりに強く、突き刺すように痛い日差しが、毎日肌を焦がすツバル。
そして時々カラアーンと水不足。
降るときにはザパーッ!と巨大バケツをひっくり返すように潔く、冷たく降るツバル。


日本人。 

 ー感情を表に出さず、スキンシップをしない日本人。
でも奥ゆかしくて感性が鋭くて、そこはかとなく優しい、日本人。
繊細でみずみずしい、日本人。

 
ツバル人。

 ーガハハハハッー!!と毎日大笑いして、ヒョォーホッホッホォ!!と奇声をあげて踊り、バンバン!と人の背中を叩くツバル人。
オープンでおおらか、大ぼらデマを平気でどんどん言ってのける、くったくのないツバル人。

 
 京都洛北。我が家の前の用水路の、細くキラキラとした柔らかな水の流れを見つめながら。

 日本とツバル。
 このふたつの島国の、決して決して歩いては行き来できない、この遠さをー、わたしは根っこから感じていた。



執筆 2007年5月16日