● 水 2  〜硬いですが、知識編〜

 

ー ツバルの水の歴史ー


ツバル伝統の、パンダナス葉の家(ツバル語「ファレ・ラウ」)。
この屋根からは、残念ながら雨水は集められません。ナヌマンガ島にて。

フナフチの1930年代の水のことを語ってくれた、ナタノ・セーテマじいちゃん(1923年生)


2005年時、フナフチ環礁の最高長老(=「ウル・アリキ」)であった、シアオシ・フィニキ氏(1936年生)。おちゃめなじいちゃん。 (ウル・アリキ→社会学科バイツプ島1「どこにでもあるヒエラルキー」

フナフチの空港向こうの豚小屋の隣に、2003年に掘った井戸。「当然その時から塩水だけど、豚小屋の掃除に使ってる。そのために掘った。」トニセ氏談。


バイツプ島の森の中、アラエ地区にある井戸。現役。バイツプ島ではたくさん井戸を見ました。けれど、日本の大きな桶や滑車のつるべのようなシステムは全くみあたりませんでした。


バイツプ島。森の中、また別の場所の井戸。
これも現役。みんなでプラカ芋畑に収穫に行ったとき、どろんこになった足をここで洗いました。飲むには沸かしたほうがよい、そうです。

大なべでかきまぜてるのは輸入の砂糖ジュースですが。
いやそれより。ここはマネアパ(集会所)の前です。なべが置いてある下は、集会所のといから集めた地下雨水タンク「ヴァイ・サメニ」です。ハイ、それを見せたくって。

これがプラカ畑。上のほうにいてる人の位置から、下のプラカ畑までずいぶんと段差があるのがお分かりでしょうか。これはその昔、みんなで掘り下げたのです。(バイツプ島)


カウセアおじさん「昔は雨上がりのプラカ畑で水浴びもした。」(フナフチ)


再び、バイツプ島のプラカ畑。
「パイパイタリガ」という、わりと小ぶりの種類のプラカ芋をみんなで収穫しました。それでも葉っぱは、こんなに大きい。プラカ芋には色々と種類があります。プラカ芋のコーナーで解説したいと思います。


プラカ芋を収穫するときは、葉っぱも取って、芋を包んだり、料理するとき敷物にしたり、タライの蓋にしたり、と色々に使います。


これが1980年代初頭、NGO「Save the Children」によって作られた、各家付属の雨水タンク(「ヴァイ・タネ」)。
(バイツプ島、家族になったタリアとリセの家)

◆ 1 井戸水 ◆

(「井戸」= ツバル語「ヴァイ・ケリ」Vai keli )

● フナフチ ●

 現在、地下から湧き出す海水の塩害が大きな問題となっている首都フナフチ環礁、フォンガファレ島。

  もともとがサンゴでできていて、海水が浸みやすいスポンジ状のツバル各島。そのツバル9島の中でも、一番海抜が低いのが、この首都。

 このフナフチ・フォンガファレ島には、その上、不幸な歴史が加わりました。
 じつは、第二次世界大戦時、アメリカ軍によって、大きな土地改造が行われたのです。
 空軍用滑走路を作るため、もともと沼地であった島中心部が埋め立てられました。軍用設備建設のため、海岸線も埋め立て拡張されました。
 それらの埋め立て用の土砂を採掘するため、この島の各所が無計画に掘り起こされました。
 
 その結果、あちこちに穴ぼこ状の海水の池ができました。(bollow pitsと呼びます)
 大きな穴ぼこだらけの、スカスカの島になってしまったのです。
(首都フナフチの洪水や海岸線浸食は、地球の海面上昇よりはこの土地大改造と人口激増に直接の原因があると思われます。→「ー海に沈むより先にー」

 
現在はどこを掘っても、でてくるのはこのスポンジ状の地面を通して染み出してくる海水まじりの飲めない水。

 このフナフチ・フォンガファレ島にも、戦前の1930年代には、大きな2つの井戸が活躍していた証言があります。つまり、戦前は、地下から真水がとれていたのです。

 ひとつは、現在は政府総合庁舎ビルがある場所にありました。とうに姿を消しています。

 もうひとつは、銀行の北、ソロセニ・ペニトゥシ氏宅敷地内に現存。が、今や当然、塩水になっていて使えません。

 1923年生のナタノ・セーテマじいちゃんは、1930年代、ここの井戸の水を学校の行き帰りにゴクゴクと飲んでいた、と語ってくれました。
 今は歩くこともおぼつかないナタノ氏は、この井戸水がかなり昔から飲めなくなっていたこともわたしと話して初めて知りました。
「なんと、今は飲めないのか。なげかわしいことだ。」と、とても悲しそうな顔をしました。その時、沈黙したその目が、いまも鮮明です。

 シアオシ・フィニキ氏(1936年生)の証言によると、1950年代にはこの井戸は海水まじりで飲めなくなっていました。

 フナフチでは、今も、豚小屋の近くに水汲み井戸を掘ります。塩水がでると承知で、豚小屋掃除に使うためです。

 ● 他の離島 ●

 けれども、フナフチよりは海抜も高く、また土壌も分厚いバイツプ島やヌイ島では、今でも10以上の井戸が健在です。

 わたしがパイツプ島に滞在していた頃は、森のプラカ芋畑や豚小屋に作業に行くと、よくその近くに井戸がありました。
 その井戸の水を豚にやったり、作業で泥んこになった足を洗ったりしました。

 これらの井戸は島共有のもの。管理人は島役場カウプレ。(カウプレ→社会学科バイツプ島2 「島の自治は強し +島役場カウプレ」) 
 現在は、各家に丸い雨水タンクがあり、ふだんは井戸を生活用水にすることはなくなりました。
 それでも数年に一度、深刻な水不足が起こると、今でもこれらの井戸から飲料水・生活用水の水をとってくるそうです。
(インタビュー:タリア・サラソパ氏・リセ・モエアフ氏)

 バイツプ島では、以前は森だけでなく、人の居住区である村にも10ほどの井戸がありましたー。
 けれどそれらは、1978年の独立前に、住居に近くて子供が落ちる事故があいつぎ、危険だというので埋められました。

(ヌイ島の詳しい井戸事情については未調査です。ヌイ島滞在経験者の方、情報をください。また、他の島の井戸情報なども。)

◆ 2 雨水地下タンク ◆

(ツバル語「ヴァイ・サメニ」Vai Sameni)

 また各島、集会所(マネアパ)の隣には必ず、集会所の屋根の雨水をトイで集める、大きな雨水地下タンクがあります。
 1978年のイギリスからの独立以前は、この、古くから作られてた島共有の大きな雨水地下タンクが、普段の島民の暮らしに活躍していました。
 毎日、各家々から集会所まで、人々が水を汲みにきていたそうです。

 この地下雨水タンクは、各島で今も健在。
 各家に丸い雨水タンクができてからは、日々の暮らしには使われなくなりました。でも、数年に1度の水不足の時には急遽、大活躍するのです。
(インタビュー:フナフチ・バイツプ島・ナヌマンガ島の年配の方々)

 もうひとつ、フナフチの各家では、かなり以前から、とても小規模ながらドラム缶を野外に出して、そこに雨水をためます。飲みはしませんが、水浴びその他に使っています。(次ページトップ写真)
(インタビュー:2007年度フナフチ代表国会議員カウセア・ナタノ氏)

 その風景はいまも健在です。

◆ 3 プラカ芋畑の水 ◆ 

 ツバルの主食のひとつである、根菜「プラカ芋」。このプラカ芋畑には、水が必要。
 そこでプラカ芋畑をつくるときには、まず開墾した敷地全体を深く掘ります。
 バイツプ島やナヌマンガ島でわたしがはたらいたプラカ芋畑には、ひと一人分も、土手から下に下りて作業をするところが多々ありました。

 話はそれますがー。踊りのはなし。
 それだけ深く土地を掘るには、村をあげての共同作業が必須なのです。

 100年も前には―。
 
 男たちが大勢で土を掘り、土手の上で女たちが、その意欲を鼓舞するために、速くて高揚したテンポの歌と踊りを繰り広げて男たちを景気づけたそうです。
 そのリズムは「ファカナウ」といいました。今のツバルの祭りで踊られる伝統の踊り「ファテレ」よりずっとアップテンポ。とても興奮するアッパー系リズム。

 ところが19世紀後半、キリスト教がこの国の諸島に上陸・強力に布教していった時。
 その「ファカナウ」音楽は、牧師たちに「こりゃぁ、性的な刺激が強すぎる。悪魔のリズムだ。」と評され、絶滅したという…。(★1)
 筆者ナツにとっては、とても、残念なことです。

 さて、ともかくも。
 そんなわけでプラカ芋畑が深いのは、畑に水を保つためです。
 なので、雨のあとは、プラカ芋畑に行けば水がたまっている。
 その水を、以前は、汲み出して豚にやり、またプラカ芋畑に来て、バケツで水を汲んでそこで体も洗ったのだという。(カウセア・ナタノ氏) ほぉ、びっくりです。


◆各家1個の丸い雨水タンク◆

(ツバル語「ヴァイ・タネ」Vai tane)

 1978年のイギリスからの独立後。1980年代早々に、「Save the Children(→日本局HPはこちらという世界的NGOが、全島全世帯雨水タンク設置工事に着手しました。その後、そこで至らなかった不足家屋にも、UNDP国連開発計画が雨水タンク設置。

 なにせ各家に一個の雨水タンク。屋根の広さの分だけ、トイをつたって雨水がたまります。
 今はほとんどの家が、これですべて、暮らしています。

 現在は、首都フナフチでは雨水タンクから水道蛇口を屋内にひいた家も多くなってきました。台所で蛇口をひねるとジャー、っとでます。

ジャーとは出るが、その元は、家に設置された小規模なタンク、です。(大小あるが、約5000リットル前後。)

 上記の、村共有の大規模な地下雨水タンクは、古い時代にはめずらしかったセメント(ツバル語「サメニ」)で作ったことから、「ヴァイ・サメニ」といいます。
 一方こちらの各家屋用の小さな丸い雨水タンクは、これもセメントでできていても、ヴァイ・サメニとは言わない。タンクを意味する「タネ」から「ヴァイ・タネ」と呼んで、区別しています。

 もうひとつの側面があります。
 この各家の雨水タンクが普及してから、ツバル伝統の「パンダナス葉葺き屋根」の家は急速に姿を消すことになりました。
 なぜなら、パンダナス葉葺き屋根をつたわってくる雨水は、茶色くて使えないからなのです。

  ーやはり、“暮らしの便利さ”と、“暮らしの美しさ”とは、両立しない宿命なのか…?

 日本でもツバルでも、つきつけられる1大テーマが、ここでもわたしの頭をもたげます…。

★1 『Tuvalu a History』 (複数のツバル人の手によるツバルの歴史書) 「Singing and Dancing」by Laloniu Samuelu ; 『Tuvalu a History』は、首都フナフチのUSPセンターで買えます。



いとしいツバルのパンダナス葉の家、「ファレラウ」よ…!これはバイツプ島、フィアリキじいちゃんの家。


これは同じ「ファレラウ(葉っぱ屋根)」でも、首都フナフチのヴァイアクラギホテルのテラスの物。生活感ありませんね。でもパンダナス葉を束ねて縫った、その重ね(「ラウ」と呼びます)が美しい。

執筆 2007年5月10日



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