● 2016年 南の人名録  3

       ― 千とハイチア ―



サイクロンによってできた新しい海岸。ハイチアは、「NATU」「HAITIA」…と家族みんなの名前を書いた。
(2016年1月16日)


  細い手足がバンビのような女の子ハイチアは、「モダンタイムス」のチャップリンの真似をして、カックカックと足を高くあげてナベを外から母屋に運んできた。その動きがうまくて、わたしはプーッとふき出す。するとハイチアは嬉しそうに上を向いて頭を振って、ケララララララ!と高い笑い声をあげる。

 ハイチアは、ナヌマンガ島、アセナティの8人いる子どものうちの末っ子だ。兄や姉たちはもう働きに出たり上の学校だったりで、島に残っているのは知的障害のあるフアリア(★1)と、ハイチアのふたりだけだ。
 今年、2016年の3月にハイチアは12歳になった。誕生日にアセナティとわたしで、ドラム缶でケーキを焼いた。島には生クリームがないので、ここでケーキというとスポンジ部分だけなのだが。そして、普段は買わないぜいたく品であるチョコ菓子と缶ジュースも買ってきて、日本の友人たちがことづけてくれた色んな形のろうそくをつけ、「ハッピーバースデー」を歌った。すると細っこいハイチアは、真っ赤な顔を両手の中にくしゃくしゃとちぢこめて、涙を出して喜んでいた。

★1 フアリア → ナヌマンガ島の日の出「肌からもらうもの」
 



  日本からの毎回のみやげのひとつが映画のDVD。今回は「モダンタイムス」と「千と千尋の神隠し」だった。島にはテレビがないのでいつもみんな大喜びだ。
 けれど、父親のウィニが野鳥を獲って帰った晩は、大人のわたしたちは野鳥の羽むしりやら下ごしらえで忙しくて見れない。雨で魚釣りに行けないので、野鳥がおかず、という日が続いて、なかなか映画でくつろげなかった。(野鳥獲りは鳥が森の寝床に帰ってくる夕方から夜にするもの。)
 毎日、ハイチアはわたしに、「ね、今晩観る?」「ね、今夜こそ観る?」と映画を催促していた。そしてやっとある晩、みんなで観れたのだ。わたしのノートパソコンに、みんなごろ寝でかじりついて、ガハハと笑う。「ハ〜ナ!」と歓声をあげる。フアリアなんか転げまわって喜ぶ。それからハイチアは、チャップリンの真似をしては、「ね、ね、今晩もう一度、あれ観ようよ」と毎日催促するようになった。


7歳のハイチア(左)と夢菜(「モエミティ」)
(2011年4月16日)



8歳のハイチア。母親がござを編むためのキエの葉を木に登って採る。
キエの葉は棘がするどくて痛い。(2012年12月6日)

  母親のアセナティは働き者だ。朝早くから夜遅くまで、常に料理やござ編み他、あらゆる作業をしている。そして周りの手伝いを子どもにやらせる。その中で子どもたちが生きていく技術を習得していくように、厳しく指導する。
 そんなだから、今ひとり島に残ったハイチアは忙しい。アセナティが料理をすると、いつも屋内から外の料理小屋にナベやおたまや塩の缶を運んだり片付けたり、調理器具を洗ったりにパタパタと走り回る。父親のウィニが切る椰子の樹液(「カレヴェ」)の瓶5本を朝夕、布きれとギエの木の枝を突っ込んでゴシゴシ磨くのもハイチアの仕事だ。

 ハイチアは勉強が好きで、いつもクラスで一番だ。手伝いのあいまをぬっては、床にノートを広げて宿題をする。わたしにもよく質問をしてきた。ふたりで算数やら英語やら「ビジネス」教科(なんてのが、小学校でもある)の勉強をクイズみたいに楽しんだ。
 そんなとき、外で料理をしているアセナティの大声が飛んでくる。
「ハイチア!木杓子と網を持ってきな!それから臼を洗っとくんだよ!」
 するとハイチアはピューッと細っこい足で飛んでいってチャチャチャッと母親の用事をかたずける。そしてまたピューッと戻ってきてノートに顔をくっつける。



   やっと2本目の映画、「千と千尋の神隠し」を観たら、また何回も観たがった。そしてある日から、「わたし、チヒロね。」 ―自分のことをチヒロと呼ぶようになった。アセナティのことは「オカアサン」、ウィニのことは「オトウサン」、フアリアは「ユバーバ」、わたしを「ハク〜」と呼ぶようになった。その発音のきれいなこと…!


  4月。突然、わたしはあれこれの原因で坐骨神経痛を発症した。歩けないどころか5分以上は座ってもいられない。毎日のアセナティとの料理やかご編み・ござ編み、森でのラウルー葉摘み(★2)もすべてやめて、ひたすら寝て療養する暮らしとなった。
 アセナティはハイチアに、毎食ごとにわたしの皿に食べるものを用意するという「ウェイトレス」役を命じた。呼ばれるまで、わたしは屋内で痛い尻をなでさすって寝ている。ハイチアがあちこち走り回って用意をしている。そして、外から高い嬉しそうな声がする。
「ハ〜ク〜!ユバーバ・レストラン、用意ができましたよ〜!」

 なぜユバーバ・レストランなのか、それはともかく。わたしは、アセナティが用意した杖にしがみついて、ヨタヨタと外に向かう。
 丸太で作った一人用のテーブル。そのテーブルの上はバナナの葉で飾られている。島の祭りの宴のようだ。その上にわたしの好きなタリ(ココナツの殻をそのまま使った椀)があって、中はブレッドフルーツのスープ。生魚のときには―、普段、わたしはひとりで日本風に切って醤油とわさびで「刺身」をしていたが―、ちゃんとわたしの醤油とわさびと箸がセッティングされている。島の人は大きなかたまりのまま食べる生魚を、小さく切ったのもハイチアのようだ。…切り方が、グッチャっとしてはいるが。そして千尋・ハイチアはテーブルの横で、大きな目をキラキラさせながらわたしの反応を凝視している。こんなとき、わたしは、「普段から人のすることをよく見ていたんだなぁ」と感心するのだ。

 


そろそろ9歳になる頃のハイチア。
手に持つのはファラの実。
サンダルは父親ウィニが、壊れた
貯水タンクのゴムを切って作ったもの。
(2013年2月8日)

 ところが数日してもまだわたしが回復しないと―。テーブルに敷かれる葉の数が少なくなってきて、そのうちなくなった。箸や醤油も忘れられている。ハイチアは丸太テーブルの横の地べたに寝っころがっている。
「千尋、仕事がぞんざいになってきたねぇ」とわたし。
ハイチアは笑いながらゴローンと転がって言った。
「チヒロは、もぉ疲れたの!」


★2 ラウルー葉=ツバルの森に自生する山菜。バイツプ島実況写真その3 ―料理小屋は暮らしの場―


 5月。首都への船の予定が繰り上がって、3週間も早く、突然わたしはナヌマンガ島を去らねばならなくなった。家中が大慌てとなった。アセナティはわたしに持たせる工芸品を作るため、ファラの葉をとりに森にゆく。ウィニは族長の家に行き、豚を殺して親族での送別会を準備する。みんなが気ぜわしく走り回るなかで、わたしは半年分の荷物をおっぴろげて荷造りをはじめた。


あるときハイチアは、わたしの机に枕カバーをしいて、
花冠で飾っていた。(2016年5月9日)

  ハイチアは、今回は日本に残っているわたしの娘への手紙を書いて、わたしにことづけた。読み書きが好きなだけあって、12歳にしては表現力の豊かな、分かりやすい文だった。わたしがハイチアにそう言って、「きっとこれから素敵なものをたくさん書くだろうね。もっと読みたいよ」とつけ加えると、とても嬉しそうにニッカと笑った。
 そしてその後、三角座りをして、わたしが荷造りするのをを見ている―。


  わたしは何をどこに入れるか考えるのに夢中で、時間が過ぎてゆくのも気づかなかったが―。
ハイチアは、まだ三角座りでじっと見ている。
外で、わたしに持たせる椰子の葉のござ(「カパウ」)のミニチュア版を編んでいるアセナティが、叫ぶ。
「ハイチア!ハサミの入ったケテ(かご)を持っておいで!」
ハイチアはシャッと立ってピューッと飛んでいく。
そしてピューッと戻ってきて、また三角座りをして、わたしをじっと見つめる。

 ―ああ。これと同じことが、あった。もう死んでしまったバイツプ島のロゴばあちゃん(★3)。8年前のある日、バイツプ島で。やはり日本に帰るための荷造りをしていたわたしを、夜中の2時ごろに、起きてじっと見つめていた。
「何か手伝えることはないかい」
とロゴばあちゃんは聞いた。
「いや、荷造りは自分でしないと、何がどこに入ってるか分からなくなるから。ロゴばあは寝て。」
わたしはそう言って、せかせかと作業をした。
けれどロゴばあは、座って、じっと見ていた。そして、目に涙をためていた。
「寝て。身体を壊すよ。」とわたしは何度も言った。
けれども、ずっと、ずっと、座って見ていた。
わたしはそのとき、―はじめてのことを知った。
「ああ、こんな愛情の表現もあるんだ」と。
何もできないけれど、ただ、ずっと見つめている、という。

 ふとハイチアのほうを見た。
自分の両膝をかたく抱いているハイチアの目に、涙がいっぱいあふれていた。
またアセナティが呼ぶ。
「ハイチア!」
ハイチアはまたピューッと飛んで行って、ピューッと戻ってくる。そしてまた膝を抱いて、真っ赤な目で、じっとわたしを見ている。
 ロゴとハイチアは島が違うので、会ったこともない全くの他人同士だ。そしてロゴはあのとき既に年寄りで、今はもう死んでいる。ハイチアはまだ子どもだ。けれどこのふたりから、不思議に同じ深くてあたたかいものをわたしはこうして受けとめている。

 ハイチアに、受けとめていることを伝えたくて、わたしは言った。
「ハイチア。日本、いつか必ず、おいでよね。」
「うん。」
「ハイチア。スポーツ(この家の仔犬)のしつけ、しっかりするんだよ。」
「うん。」
かける言葉がなくなると、わたしは黙って荷造りを進めた。
ハイチアの視線にのってくる柔らかいものをいっぱいに浴びて、身体は、生きていることの喜びでいっぱいだった。

 7月。日本に帰って、ある日。
リリリと鳴る電話をとったら、その受話器の向こうから―。
「ナツ!」と遠い声。その声はかすれて、でもかわいかった。びっくりした。
「ハイチア!ナヌマンガから、かけてるの!?」
ツバルから日本へはツバル国営テレコムの国際電話しかなく、料金がどえらく高い。アセナティがテレホンカードを買ってくれたんだろう。
「ナツンガ!今ンガ、何をンガ、してるンガ?」
ナヌマンガ島にいた頃ハイチアとわたしの間で、いっとき、すべての言葉を「ンガ」で終えるという変なしゃべり方で遊んだことがあった。いきなり電話の向こうからそれだ。わたしは底抜けにおかしくて嬉しくなった。そして答えた。
「モエミティとンガ、料理ンガ、してるンガ!ハイチアはンガ、何ンガ、してるンガ?」
すると電話の向こうの南太平洋から「ケララララララ!」という高い笑い声。
 けれども電話代が心配だったわたしは、
「こっちからかけなおすから」と言って話もそこそこに、あわてて電話を切った。
しかし、日本からツバルは、なぜか通信が悪いことが多いのを、忘れていた。その後何度やってみても、ナヌマンガ島には電話は、まだかかっていない。


★3 ロゴばあちゃん → ツバル特選写真集2004年―2006年その7

執筆 2016年9月22日







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