● 2016年 南の人名録 4 |
― 森の奥のプラカいも畑 ―
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マイナじいの息子のプラカいも畑。マイナの息子たち・孫たち総出で収穫。 (2006年5月5日)
わたしと娘がバイツプ島にいた頃。80歳を目前にするマイナは、いつも朝4時半に起きて、ひとりで森のプラカ芋畑やタロ芋畑にでかけていた。タロ芋はツバルでは栽培が難しいといわれるが、マイナじいは上手なんだ、ということをわたしは聞いた。マイナに森の奥のタロ芋畑に連れて行ってほしい、一緒に畑仕事をしたい、と思ったわたしは―。 次の朝。 |
マイナじい、80 歳。逝去の4ヶ月前。(2008年12月10日) |
マイナじいはそれからも毎朝、森の奥の畑に出ていた。わたしも機会を探しては、他の色んな人とは、プラカ芋畑・タロ芋畑に出かけていた。しかしついに、森の奥に点在するマイナじいの畑には行かないまま、マイナは突然逝ってしまった。 マイナじいの毎日を見ていると、落ちついていて無理がなかった。毎朝、決まった時間に起きて森に出る。日が昇る前ならこの暑い国でも動きやすいのだ。そしてほんの1、2時間で帰ってきて、横になってゆっくり休む。いつも、身体の声に耳を傾けながら生きている―そんな柔らかな印象が、マイナじいからはかもしだされていた。 |
タリアとは、マイナが逝ってしまった後も、何度も森の奥にでかけた。ある日、高い木々の森にうずもれるような一角のプラカ芋畑を案内してくれた。 「ここは、マイナがひとりで開拓したんだ。」 12畳くらいの広さがあった。プラカ芋畑は、地面を1.5mから2mほど掘って開拓する。保水のためだ。日本でいえば田んぼは地面より低く作る、あれをその3倍以上は掘りさげる。そんな畑を、マイナがたったひとりで開拓したと聞いて、たまげた。 マイナじいには6人息子がいる。島の祭りのとき、親族の祝いごとのとき。この6人の息子たちはマイナじいの鶴のひと声で、さっと集まる。みごとな結束力だ。ここの息子・娘たちはみんな、両親を深く慕っている。この壮健な6人とおおぜいの逞しい若い孫たちも総動員したら、あっという間の畑づくりだろうに。 「いやぁ、それがさ。マイナは、わしら息子たちに、な〜んにも、言わんかったんだ。そんで、たったひとりでな。わしらはみんな、できたこのプラカ芋畑見て、腰抜かしたわ。ウチのじいちゃん、すげぇ!って。」 「…マイナじいは、毎朝少しの時間ずつ、森にでかけていたよね。」 「そうなんだ。この畑も、毎朝ほんのちょっとずつ、掘っていったらしい。気づかんかったわぁ〜。」 そしてマイナじいは、こんな畑をひとりで、6ヶ所も開拓したんだ、と聞いた。 ―ひとりの人間ができることは小さい、とはよく言うが。毎日、少しずつ、すこしずつ、で、ひとりの人間ができることの大きさに、このとき、鼓動がドーンとなるほど驚いた。わたしは「人間」というものの能力をみくびっていた。知らなかった。 ああ、これだ。シンプルに食べ物を作り、また採集して暮らすツバルの離島に、長期滞在を繰り返すようになって知ったこと。人間という動物の美しさ。その力。先進国の街なかで育って、愚かだとばかり感じていた人間というもの。この離島では、そんな自らの「種」の持つ魂・こころ・身体の深さや力に、幾度となく腹の底から驚かされ、感動する。 |
このタリアの家では、プラスチック製の椅子を使って食事をしていた。マイナじいが逝ってから初めてバイツプ島に戻ってきたとき。椅子をなにげに引くと重い。ん?とかがんで下を見ると、椅子の足のひとつが根元から折れてなくなっているのを、太い角材で接いであった。大きなクギで打ちつけて、頑丈に修理されていた。それで重かったのだ。 また、家の前のパパイアの木が斜めになって倒れそうになっているのを、支え木が3本してあった。ロープできれいに丁寧に結わえてある。パパイアはおいしそうなオレンジ色の実を垂らしていた。 ―そこかしこに、身体はいなくなったマイナじいが、いる。 |
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マイナじいが掘った森の奥の井戸。 (2010年9月19日) |
そしてもうひとつ、あった。 |
どうしても日本人気質のわたしは、どこに行っても書き物をするときには自分の周囲だけでも小さなゴミやチリを、その持参の2点セットでシャシャッと掃いていた。そんな必需品だったが、前回バイツプ島を去るとき、うっかり母屋に置き忘れてきた。そういうものはまずもう出てこない。子どものオモチャになって壊れて終わりだ。あきらめた。 それが、マイナじいの遺品のトランクの中から出てきた。大切そうに、きっちりと2点がまとめて、奥から出てきたのだ。 「あー、わたしのだ…!」 するとマイナじいの孫のテプアが言った。 「あぁ、ナツのだったんだ。マイナじい、それで毎日のように、その辺を掃いていたよ。」 びっくりした。ツバル人に、こんな小さなチリとりと手ぼうきで、細かいゴミやチリを掃く人がいたとは。 このチリとりと手ぼうきは、一度は南太平洋に置き忘れてきたが。いままた、日本でもツバルでも、わたしとともに暮らしている。そしてわたしは、このふたつに触れるときに、マイナじいの手を感じて、いつもニンマリとするのだ。マイナじいが生きているとき、もっと繋がりたかった。そう思っているまに、逝ってしまった。そんなマイナじいと、今、ともに生きている―小さなこんな日用品に、それを感じて嬉しくなるのだ。 ―思えばあのとき、大切なものだったのにうっかり島に置き忘れたのは、偶然ではなかったのかもしれない。 ★ マイナは1928年生。もとは別の名前だったが、小柄だったため、子どものとき島に来たアメリカ人教師に冗談で「minor」と呼ばれたら、いつの間にかそれが本名になってしまったという。まったくおおらかなツバル人たちだ。戦後、キリバスやナウルのリン鉱石掘削業に数年出稼ぎに行ったり、農業省バイツプ島支部で働いたりした。バイツプ島の6人の長老リーダー(ツバル語「アリキ」)のひとりであり、またバイツプ島の土地裁判委員でもあった。2009年、80歳で逝去。
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