● 子ども 1 |
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腕のなかの見知らぬ子どもたち
ー「ひとの子ども」という概念の特殊性1− |
大人たちが母ざめをしとめた。そのおなかから出てきた赤ん坊ざめたちと遊ぶ子どもたち。バイツプ島。 (右端:夢さん4歳) |
これが島と島を行き帰する船のデッキ。ござを敷いてひしめきあう。数日の船の旅で食べる食糧、飲むココナツもごったがえす。 ツバルに初めて来て乗った、バイツプ島行きの定期船。ござ・枕を貸してくれて、ポロカ(凍ったジュースのミニ袋)をくれたひとたちと。(右手前:夢さん4歳) 船ではいつも見知らぬ人びとにココナツやパン(手前)をもらって、遊んでもらった夢さん。 これはカレポレポといい、ココナツの樹液(カレヴェ)を煮詰めて水飴にしたもの。ココナツの葉芯をバーにする。どこでもここでも、こうして夢さんは大人たちに色々してもらった。(バイツプ島) セニレヴァばあちゃんが干し魚の準備をするのに、ぴったりくっついて遊んでいた夢さん。(フナフチ) 網漁をおえたタタヴァおばさんが、つかまえた魚を海水で洗って指でさばき、遊んでいた夢さんにあげている。(フナフチ環礁フナファラ島) 小さな旅客ボートは揺れるので、小さな子どもは、そばにいる大人が抱く。その子どもが知り合いかどうかなんて、関係ないのだ。(右手前:夢さん5歳) 日本でも、ツバルでの習慣から誰にでもペタリッとくっついては、人にぎょっとされることもある夢さんです。 (フナフチにて、レスリーと。) ナヌマンガ島にて。ホームステイ母ちゃんのテアギナが、夢さんと放し飼いの鶏親子をながめていた。 ーずいぶん長い間、ふたりで眺めていた。(夢さん5歳) 学校の朝ごはんブレイク。親が家から軽食をもってくる習慣だ。ホームステイ家族の親戚のファカレパが、自分の子供とまとめて夢さんのごはんの面倒をみてくれた。(右:夢さん6歳) |
● 子どもと、親でない大人 ●
日本で。 小さな子供がみんな持っている、命の光のような流れが、わたしのからだに、とうとうとはいってくるのを感じるのだ。 日本で時々、他人の子供を抱くたびに、からだが思い出すのは、ツバルの日々だ。 わたしは最初不思議だった。「ゴザも枕も、ポロカも、なんで余分があるんだろう??」 そしてその腕の中で、夢さんはいつも目をキラキラと輝かせているのだ。 そういう大人たちは、なんとも、いとも簡単に、夢さんを抱きしめ、ほっぺにキスをするのだ。自分の子供にする愛情表現と何のかわりもない態度を、今日知り合った子どもにとるのだ。 船旅に慣れてくる頃には、わたしも島で編んでもらった自分用のゴザを必ず広げるようになっていた。 そして。混雑してくると、隣りのゴザの子供が、当然のようにわたしのゴザに入ってくる。夜には当然のようにわたしのゴザの上で、わたしにくっついて寝る。わたしは自分のスルー(腰布)をそんな子供達にかけてやる。 隣のゴザの、その子ども達の親は、とくに恐縮する様子もなく、堂々とそんな様子をながめている。 ところがツバルの人びとは礼など言わない。堂々としている。 |
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そして船に朝が来ると、夢さんと並んで、数人の子どもがわたしの目の前に座り、わたしがビスケットにバターをつけて回してやるのを待っている。 デッキの鉄の階段をテンテンテンと降りていくあいだ。名前も知らない子どもが、しっかりとわたしの腕にしがみついて、小さなからだ全身でわたしに頼りきっている。 そして、わたしの腕からまんまるい大きな目をのぞかせて、あたりを好奇心で見つめている。その子どものちぢれた髪の毛が、あごにこすれてかゆい。その髪の毛の匂いをぷんとかぎながら。 その「今を生きてる」という強烈な臨場感に、襲われていた。
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