● 2016年 南の人名録  2

― ミシンを踏むファータシガ ―



ファータシガの母・サウアロファばあちゃんと、ファータシガの娘サウアロファ・フォーリキ
(2016年1月5日)


  ファータシガは2016年の今年、41歳になる。わたしより8歳年下だ。わたしがこの首都フナフチにいるあいだ、毎日通っているサウアロファばあちゃんの娘だ。少しふっくりとした頬が優しい。
 
 わたしはサウアロファばあちゃんと一緒に椰子の葉のゴザ編みなどツバル手工芸の作業をしている。ファータシガは、母屋の隣りの大きな高床式の小屋の、さらに隣りのとても小さなの壁のない高床式小屋で、いつも足踏みミシンを踏んでいる。その小さな小屋のさらに隣りには、2年まえに13歳で死んだファータシガのひとり息子ヤコポの、タイルづくりの墓が、屋根もきれいに作ってあった。

 ある日、わたしは知人の結婚パーティーに招待された。大きな方の小屋で、サウアロファばあちゃんの家のみんなに招待状を見せていた。すると誰かが言った。
「ナツ、緑の服持ってる?今晩のこのパーティーは、トーギガが緑だよ」
「トーギガ」というのはツバル語で、「ユニフォーム」とか「みんなおそろいの衣装」とかいう意味だ。首都フナフチでの結婚パーティーでは、ときどき、服の色だけみんな揃えよう、という趣向があったりする。
「持ってないよ。持ってない人は、まぁ、なんでもいいんじゃない?」とわたし。

 すると、向こうの小さな小屋からミシンの手をとめてファータシガがほほ笑んで言った。
「わたしが縫うよ」
…って、いま昼前だ。パーティーは夜6時半。
わたしは小さな小屋に向かって叫んだ。
「ファータシガ。頼まれた縫製の仕事で忙しいのに、いいよ、そんなの。適当なの着ていくから」
「だめだめ。こっち来て。サイズ計るから」
明るく柔らかく、ファータシガはわたしを誘導した。

 あれこれの用事に走ったあと、わたしは夕方6時にサウアロファばあちゃんの家にかけつけた。ファータシガは、小さな小屋にはみ出しそうになっているたくさんの布きれの中で、足踏みミシンを調子よく踏んでいた。
「ナツ。ハウ(来て)。もう少しだから、そっちの小屋でサウと待っていて」
手と足は忙しそうに動かしながら、優しい笑みで言った。

 かくて、できあがった緑のワンピースは、たっぷりとしたギャザーの襟がかわいくて、スルッと着やすかった。こんなフォーマルドレスを、型もとらず目安で布をジョキジョキ切ってサッと縫ってしまうツバル女性の技術には、いつも感服する。
「ファータシガ。お代を出すよ。いくら払えばいい?布代も。」
「―ナツ。わたしたちはカーイガ(家族)だよ。いらないんだよ。本当に」

 サウアロファばあちゃんは、ナヌマンガ島でわたしが長年世話になっているホームステイ家族のアセナティの生みの親だ。だから、そういう表現をするのだ。つまりアセナティとファータシガは実の姉妹だ。けれど、アセナティは生まれてすぐ養子にだされたので、互いにそういう意識はない。それでもファータシガは、わたしのことをよく「トク・タイナ(姉)だ」と言う。いやむしろ、ナヌマンガ島でのつながりより、この首都にいる間、わたしがサウアロファばあちゃんを慕って、毎日来るからだろうか。



息子ヤコポの墓の上のファータシガ
(2016年1月5日)

 日本の友人から「ツバルの人に使ってもらって」とことづかった香水のひとつを、ファータシガに渡そうと次の日持って行った。けれどファータシガはいなかった。
 近くの外国人用ロッジの掃除やシーツ洗濯の仕事もしていて、日本人のJICAグループがそのロッジに来たので忙しくなったようだ。そのロッジに行ってみたら、二層式の洗濯機をゴオンゴオンと回しているところだった。それでもニッコリ嬉しそうに、
「ナツ。ハウ(おいで)」
と手でわたしを招いた。そして少しのあいだ、楽しそうにおしゃべりした。

 サウアロファばあちゃんの家には、「ポロカ」を買いにくる子どもや若者が後をたたない。「ポロカ」というのは甘い色つきの飲料を小さなポリ袋に密封して凍らせたもので、20セント(約20円)だ。それもファータシガがすべて作っていると聞いて、わたしはびっくりした。
「服の縫製の仕事に、ロッジ勤めに、ポロカ作り。仕事するよねぇ、ファータシガ」
ファータシガはゆっくり笑って言った。
「この町では、暮らしていくのにお金いるからねぇ。いろいろ、考えるのよ、わたしも」
 それが大変、という感じではなく、優しく爽やかに言うので、わたしはこういうとき、ファータシガにとても親しみを感じた。


  あるとき、ファータシガはわたしに聞いた。
「ナツ、聞かせて。日本では、どうやって暮らしているの」
「わたし?ツバルのこと書いたり、話して回ったりの他にはね。英語を教えたり、日本語を外国人に教えたり、英語の翻訳をしたり。それから、障がいのある人の家に行って手伝いをして、自治体から給料をもらったりもしているよ」
「へぇ、障がいのある人のお世話。どんなことをするの?」
障がい者介助の仕事に、興味深々に質問をしてくるツバル人はあまりいなかった。
「着替えやトイレや、食べ物を口に運んだり、夜中の寝返りとかね。人それぞれで好みの着替えの方法ひとつ全く違うから、覚えるときはたいへんだよ」
ファータシガは、興味深々に仕事内容を聞いた。
「へぇ。そうなんだ。でも、いい仕事ねぇ。人の暮らしのお世話をするんだものね」
わたし自身はまさにそう感じて、近年始めたこの仕事に誇りを持っていた。けれど、そう言ってくれる人にはあまり出会ってこなかったので、ファータシガと自分の感性の近さにびっくりした。
「ねぇ、ナツ。わたしがいつか日本に行ったら、そんな仕事が、できるかしら」
あまりにも明るく聞く。でも真剣なようだ。たいしたバイタリティだ。
「できるよ。でもまず、日本語をマスターしないとね」
「あ〜、そっかー!」
二人で大笑いした。


  一緒に住んでいたファータシガの兄、ケレタの一家が引っ越すことになった。サウアロファばあちゃんは長男であるケレタの新しい家に住むことになった。ばあちゃんがいなくなったファータシガの家に行くと、ファータシガは目をはらしていた。
「わたしね、泣いてたの。母が恋しくてね」
赤い目を細めて、笑った。
「サウは、ツバル料理しか食べないからね。兄の家では白い輸入米ばかりだから、これからは毎日わたしがツバル料理を向こうの家に届けないと。」

 サウアロファばあちゃんの新しい家に行くと、その言葉通り、毎日―
「ファータシガが届けてくれたんだよ。」というブレッドフルーツの素焼きや、ファラの実や、ファカハーカヴァ(ココナツとその樹液で作ったスープ状の料理)を、サウアロファばあちゃんが出してくれた。


左から)削ったココナツ・あげたブレッドフルーツ・まぐろの干したの
―代表的なツバルの日常食


  ナヌマンガ島のファーテレ(ツバルの伝統の歌と踊り)を、外国からの政府賓客たちに見せる晩があった。わたしは、会場の近くのファータシガの家で「トーギガ(みんなお揃いの服)」に着替えよう、と自転車で乗りつけた。
「ファータシガ!」
「ナツ!ハウ!」
前もって何にも知らせてなくても、ファータシガはわたしを見ると満面の笑顔で手招きした。
「ファーテレ歌いに行くの?何か食べた?ちょうどサウに届けた残りのブレッドフルーツがあるよ。ココナツと一緒に食べて行きなョ」
兄一家のいなくなった大きな小屋のほうで、ファータシガがココナツをガリガリガリ!とリズムよく削った。その場にいた親戚の子どもたちも一緒に、削ったココナツとブレッドフルーツの素焼きをほおばった。なんともいえぬ幸せな感覚だった。
「あぁ。首都にいても、ナヌマンガ島にいるときのようにこんなに楽しいこともあるんだな」
そう感じた。

 白いTシャツと赤いスル(腰巻スカート)のトーギガに着替えたわたしに、ファータシガはプラスチック製の花冠と、プカの実でできた首飾りを出してきてかけた。
「もっと早く知らせてくれたら、本当の花冠、編んでおいたのに。でも、これでもばっちりね。ナツ、立って踊るといいよ」

 かくて―。その晩のファーテレで、あぐらで円座して歌う中のひとりだったわたしは、歌が佳境にはいったころ、その気持ちよさに我慢できずに立って踊った。回りから人々が、「ナツ、そうでなくちゃ!」とはやしてくれた。その晩は爽やかな気分だった。着飾るのを手伝ってくれ、腹ごしらえもさせてくれたファータシガと一緒に、ナヌマンガ島に想いをはせる歌を歌い踊っているような、そんな気持ちだった。

 地球の反対側のこの日本で、あれこれで働いているとき。ふっと、暑い国ツバルで、いまも足踏みミシンを踏んでいるであろうファータシガを思い出す。そしてあのミシンの音が響く小さな小屋と、その隣のヤコポ少年の墓を包む大きな椰子の木が、明るい風に揺れて光っているのを。すると、不思議にどんなときでも、わたしの顔に笑みがこぼれてくるのだ。

執筆 2016年9月18日







次ページ: