● 2016年 南の人名録 1 |
― シンガノじい ―
|
シンガノ家のほったて小屋。 まだ小学一年生だった娘、夢さんの姿が中に。 (2006年4月20日)
シンガノ家は娘家族もおおぜいの孫も、このほったて小屋にごちゃっと暮らしている。 わたしは小屋のすぐ裏の海辺に、足を進めた。大きなサンゴ石に足元をとられてグラッとしては、踏みなおしながら。 海には、まだ朝の優しい光がキラキラしている。大きなフェタウの木の葉が風にそよいでいる。ハンモックに横たわったシンガノじいの後ろ姿は、4ヶ月前よりずいぶんと小さくなっていた。なにも身にまとわず、ただ腰の上に、小さな布きれがかけてあった。その小さいからだは、揺れる光とフェタウの葉たちのそよぐ影に溶けてゆくように見えた。
シンガノじいの家族と仲良くなったのは10年前だ。 その頃、わたしはこの首都フナフチで、日本の取材班のコーディネートの仕事をしていた。6歳の娘である夢菜、―ツバル名「モエミティ(夢)」―はツバルで小学校の一年生だった。けれど、歩くには遠い学校に、わたしは仕事で迎えにいけなかった。そこで、毎日バイクで小学校まで行ってくれたのが、シンガノじいだった。そして夕方わたしの仕事が終わるまで、家で面倒を見てくれた。大勢の孫たちと一緒に。 まだたくましい筋肉が美しいじいさんだった。短い髪は真っ白だけれど、椰子の樹液をとるために、朝夕、高い木に登っていた。薬になる樹木にも詳しくて、よく人のために葉を摘んだりそれを絞ったりしていた。 |
リヤカーで遊ぶシンガノの孫たちと夢さん (2006年4月19日) |
その後、わたしたち母子は日本に帰り、またツバルに来て長期滞在、というサイクルを繰り返した。学校の送り迎えというお世話の縁がなくなっても、首都に滞在するとシンガノ家をたずねた。 |
あるとき、その時の首都でのわたしたちのホームステイ家族であるチアレシおじさんが通風でうなされた。―通風は、白い米と白い小麦粉が輸入されだした数十年前からツバルに上陸した生活習慣病だ―。チアレシおじさんも大切な人だった。 雨の中を、わたしはシンガノの家に自転車を走らせた。ほったて小屋には孫娘のシレタがいた。「じいちゃんなら、島のはしっこの、中国人のナマコの会社の見張り小屋ではたらいているよ。」 当時73歳のシンガノじい。まだ働くのか、おおぜいの家族のために、と感心しながら、さらに雨の中を島の端まで自転車を飛ばした。 |
ナマコ会社の見張り小屋は、昔ながらの草ぶき屋根でできていたので、びっくりした。 「ナツ。こういうときは、まず、落ちつけ。」 |
|
雨がやんでから、シンガノは森で、通風の対処のための、ノニの葉の摘みかたを教えてくれた。そして一緒に家に行って、チアレシに、タバコのお灸とノニの薬を処方してくれた。 シンガノが高い椰子の木に登らなくなったのはいつ頃からだったろうか。 そして今。 わたしはシンガノの顔をのぞきこんだ。眠っている。 わたしはそっとシンガノの白くて薄い前髪に触れた。するとシンガノが目をあけた。それは、うっすらと遠く、まもなく彼方へ去りゆくひとの目だった。 わたしを見てとり、からだを起こそうとした。骨と皮ばかりになっても、ゆっくりと動く。 「シンガノ。わたし、明日、日本に帰るんだ。」 涙があふれた。わたしがまたツバルに戻るのはまだ先だ。そしてシンガノは、いま、逝こうとしている。シンガノの晩年の10年を、ときどき一緒にすごした。たくさんの、ツバルの知恵を教えてもらった。ツバル人らしいツバル人の美しさに心打たれた。 しばらく、シンガノとそうしていたかった。しかしタクシー運転手のポガを待たせている。ポガは今日、故郷である離島に行く船に乗る予定で忙しいのに、少し無理をしてわたしをここまで送ってくれている。 わたしはシンガノを、しっかりと抱いた。シンガノは目をつむったままだった。 執筆 2016年9月11日 |
− 「南の人名録」タイトルについて −
1982年、15歳だったわたしは、倉本聰氏による、北海道富良野の人々についてのエッセイ『北の人名録』に |
次ページ: |